英語の発想 (ちくま学芸文庫) 著者:安西 徹雄 出版:筑摩書房 発行日:2000/11 |
翻訳の過程を分析することで、日本語と英語における発想の違いを探求する。
よく見かける「英語は客観的で日本語は主観的」という言葉を裏付けるような内容となっているが、実に説得力のある考察になっている。
英語は名詞、日本語は動詞
たとえば、「医者の手がほんのわずかに滑っても、患者はたちどころに死んでいただろう。」というような(日本語の)情況があるとする。
(本書では、「状況」ではなく「情況」という漢字を使っている)
英語では、その情況をどのように表現するだろうか。「医者の手の滑りは、患者の死を意味しただろう。」となるのである。つまり、情況から「滑り」「死」という概念を抽出して、それを文章の中心にしている。
A slight slip of doctor’s hand would have meant instant death for the patient.
(直訳)「医者の手のほんのわずかの滑りが、患者のたちどころの死を意味したであろう」
(意訳)「医者の手がほんのわずかに滑っても、患者はたちどころに死んでいたであろう」
日本語が情況全体を「こと」として取り出しているのに、英語は情況から実体としての「もの」を取り出している。
日本語は文章全体を読み終わった後の映像イメージで情況を理解し、英語は名詞概念によるロジックによって情況を理解する、と考えられる。
英語は情況を捉えるのに、<もの>の動作主性に注目して、因果律的に解析し、概念化していく傾向が強いのにたいして、日本語は情況をまるごと<こと>として捉え、その<こと>と人間とのかかわり方を、人間の視点に密着して捉える傾向が強い。
(106-107ページ)
同じ情況であっても、言語で表現するときの発想がまったく異なる。
英語はモノを概念化していく。日本語はコトと人間のかかわり方を捉える。
日本語の「こと」の感覚を英語で理解するのは、基本的に不可能ではないか。(逆も、また不可能だろう)
1つの言語は1つの世界観に縛られるから外国語が楽しい
このような発想の違いというのは、一つの言語体系の中にいる間はわからない。その発想が常識になってしまうから、違う発想があることに気づくことはできない。
他の言語と比較することによって、はじめて違う世界観があり得ることを知る。
そして、今まで親しんでいた言語は、キツイ縛りがあることも鮮明に浮かび上がってくる。今まで生きていた世界が相対化する瞬間といえる。
外国語を学ぶ楽しさは、ここに真髄があるのではないだろうか。
本書のような言語文化論を読むと、英語からしばらく遠ざかっていた人も、英語を再開したくなってウズウズするはずだ。
また、「日英以外の言語の発想はどうなっているのか?」という疑問もわいてくる。英語以外の外国語をすぐに勉強したくなることだろう。